いぼとりかんのん / Ibotori Kannon
西藤平、西来院(せいらいいん)の西北の山中に、戸数4・5軒の倉沢部落が点在しています。
この部落の手前、西来院の境内が果てる岩場に、「いぼとり観音」通称「いぼ観音」の、小さな祠(ほこら)が建っています。
あたりは樹齢二百余年もの杉の木立に囲まれ、都会の騒音などまるで別世界のようなひんやりとした静かなたたずまいであります。
このお堂の下には、倉沢川がさやさやと清らかな水をたたえて流れ、苔むした岩肌には岩たばこが可憐な薄紫の花を咲かせています。このいぼとり観音にまつわるお話は、この近在ではあまりにもよく知られているお話です。
昔、この倉沢部落に、夫婦と年ごろの娘の貧しい一家が住んでいました。この娘の手には無数のいぼができていて、人知れず悩んでいました。
ある夏の日、両親が山仕事に出かけ、娘は一人で留守番をしていました。
そこへやってきました一人の旅僧が、門口に立ち、お経を唱え始めました。
やがて読経を終えた旅僧は、娘が差し出した施しを丁重に断り、そのかわりに一杯の水を所望しました。
娘は急いで奥へ行き、裏山の沢から手桶一杯の水を重そうに下げてきました。そして茶わんと柄杓を僧の前に差し出し
「どうぞたくさんお召し上がりください。」
と言ってにっこりしました。僧は待つ間ももどかしげに、早速茶わん一杯の水を飲みほしました。
「これは冷たくておいしい水だ。」
と、二杯目を汲もうとして、ふと娘の手もとに目をやりました。僧は娘の手のいぼに気付くと
「いぼが出来てお困りのようですね。水をいただいたお礼にいぼが治る良いお薬を教えて進ぜよう。」
娘はどのようなものか聞きもらすまいと、真剣に僧の言葉に耳を傾けました。
「この裏山を右に登ると大きな岩があるはずです。そこの岩穴から湧き出る清水を汲んできて神棚に供え、それを朝夕つければいぼはきっと取れますぞ。」
と、水のお礼を重ねていい、静かに立ち去りました。
娘は半信半疑ながら、夕方仕事を終えて帰る父母を待ちわびました。
そして昼間の旅僧の話をして聞かせました。父母は
「そんなことがあるだろうか。」
と、いぶかしく思いましたが、とにかく明日になったら探してみようということで、その夜は床に着きました。
朝になるのを待ちかねて、娘は裏山に登り、大岩からわずかにしたたり落ちている清水のありかを見つけました。その水は、下の小さな岩穴にたまり清らかに澄んでいました。岩穴の水を小さな竹つぼに受け、家に持ち帰りました。神棚に供え
「どうぞこのいぼが取れますように。」
と、手を合わせ、朝に夕に少しずつ手のいぼにつけることをくり返しました。
やがて何日か経つうちに、さしものひどかったいぼが跡かたもなく取れてしまいました。喜んだ親娘は、お礼に清水の涌く岩のかたわらに小さな観音堂を建ててまつりました。
これが西来院の「いぼとり観音」のはじまりだといわれています。
それからというもの、この娘の話を伝え聞いた人々が、諸々方々から訪れるようになり、そのありがたいご利益に、いぼ観音の名がますます広まっていきました。
その後、明治十年頃、大沢部落より発見されたいぼ観音をここに迎え、ご神体としておまつりするようになりました。
今でもこの観音様には、参拝者が寄進した紅白ののぼりが風にゆらぎ、近在からの祈願の人が毎日のように訪れています。ひんやりとした杉木立の中、岩肌に湧く清水のかたわらには、あの清らかな娘にも似たうすむらさきの岩たばこの花が、伝説を秘めてひっそりと今も咲いています。
この時の旅僧は、奥山方広寺を開いたの無文禅師(むもんぜんじ)といわれ、いぼとり観音の清水は、ラジウム鉱泉だと立証されております。
『ふるさとものがたり 上阿多古草ぶえ会編』 より
県道9号線(天竜東栄線)を熊方面に。『疣観音大祭』の看板を目印に北へ。
上阿多古小学校の外周に沿って進んだ先に西来院山門が見えてきます。
西来院の山門を抜け、石段下から左手へ。
杉木立の道を150メートルほどお進みください。